かげにっき

思ったことを書くようにする

グローバル社会のこと

誰も22世紀の夢について語らないことに気がついた。インターネットは今日も偽装家庭のアニメについて語らい合い、チラシの在庫切れに怒り狂い、ティーダのちんぽが気持ちよすぎている。

 

料理人にとって停滞とは退化と同義。

 

食戟のソーマの劇中に登場する言葉である。料理人に限らず、人はみなこれに当てはまると思っている。僕らの今は止まってしまった。緩やかな衰退に飲まれる社会。どうなるべきなのか、どうやったら打開出来るのか?僕は、1つの思考に辿り着く。

 

 

 

グローバル社会、思ってたより原始的じゃない??

 

 

 

これだ。いま世界に起こっていることは情報交換技術の発達による風呂敷広げと最適化・適合化であり、エネルギー革命じゃない。より便利に、よりムダはなくなったけど、上位存在に置き変わったわけじゃあない。

 

 

例えばアメリカの友人と僕。一瞬で連絡を取れるようになったわけだけど、誕生日プレゼントひとつ渡すにも飛行機か船を使うしかないし、その後はトラックや車でせっせと運ぶ。石油から生み出せるエネルギー以上に現実が動かせない。「原始的」は言い過ぎだけれどやってることは電話でも手紙でも出来たことで、未来がやってきたって言われても正直ショボイなという感想が勝つ。

 

 

21世紀はタイヤのない車がチューブみたいな道路を浮いて走っている。

 

 

これは「夢」だったと思う。21世紀にはあたらしくエネルギー革命が起こって、今ある世の中の常識が覆り、0ベースでもう一度世界は全部作り替えられる、という夢。期待。やってきた未来は、石油のエネルギーを電気にすり替えた自動車と、自動運転。どこでもドアでアメリカと日本が繋がったり、浮く車が運搬の効率を覆したり、そんな未来はどこにも来ないまま衰退してしまおうとしている。冒頭の答えは、叶わない夢を語るものはいない、ということだ。

 

 

グローバル社会、思ってたより原始的じゃないですか。未来を夢を見て、ツルハシ片手に出掛けてみようかな。

「おいしい」と「うまい」のちがいが伝わってほしい

 

偉そうなタイトルだが、正論だとか出典だとか、論争への武装を行っていない。こちらの武装解除と降伏の意思を確認したら、原っぱの上でみんなで楽しく読んでくれたら嬉しい。寝っ転がって読んで欲しい。というかこの際、誰でもよいから読んで欲しい。

 

 

 

さて、こんな消費期限切れの腐ったブログを開き武装解除をした理由、本題としてはかなりインパクトが薄い話になるのだが、先日、友人と盛り上がった話についてだ。

 

僕「マックはうまいけどさ、モスはおいしいよね。」

友「ちょっと何言ってるかわからない。」

僕「うまいとおいしいの区別があるんだよ。」

友「ほーん。まあ腹に入れば全部うまいよね。」

 

こういう話だ。

 

 

僕にとって「おいしい」と「うまい」にはれっきとした区別があるのだが、それが友人に上手く伝わらなかった、って話。どちらも「良い」ことを表す言葉ではあるのだが、なんていうかさ、言葉の手触りが違うような気がするじゃない。

 

僕が「おいしい」というときは、なんていうかこう、緻密さだとか、高品質ななにかを感じるときだと思う。非常に出来の良い筑前煮だとか、気の効いたフレンチのコースだとか、「おいしい」と思う。ハンバーガーショップの例で行けば、モスのほうがパンのかおりとか、野菜の味とか、どことなく、マックよりも素材のよさを感じるものだから、おいしい、と言いたくなる。

 

対して「うまい」なのだが、これは説明するのが難しい。

 

おいしいと比べると、うまいと言うときは緻密さを気にしない。出来の良さとかよりも、その絶対値の大きさにたいして、「うまい」という表現が出てくる。割と私はなんでもうまいと言っている。マックもコンビニの麻婆豆腐も、ストゼロもピザもおにぎりもなんでもうまい。飲み食いの幸福が一定値を超えたとき、「うまい」はため息として、あふれ出る幸福を逃し調節する役として現れる。

 

 

「自分はこう感じていることに、こう名前を付けているよ」というのは、なかなか伝わらんのよなあ。コミュニケーションの永遠の課題。言葉って、辞書を引いてそれが内包してるイメージを統一すること、できることもあるけれど。頭の中のどのイメージになんて名前を付けるか、って作業が絡んでくる。結局、相手の言うことをよく聞いて、その先の相手の人間をよく見るしかない。

 

そんなことを考えていると、友人は「でもプリンはさ、うまいやつとおいしいやつがあるよね…」と言ってきた。人類が分かり合える鍵は、こういうところに眠っている気がしたのだ。