かげにっき

思ったことを書くようにする

「おいしい」と「うまい」のちがいが伝わってほしい

 

偉そうなタイトルだが、正論だとか出典だとか、論争への武装を行っていない。こちらの武装解除と降伏の意思を確認したら、原っぱの上でみんなで楽しく読んでくれたら嬉しい。寝っ転がって読んで欲しい。というかこの際、誰でもよいから読んで欲しい。

 

 

 

さて、こんな消費期限切れの腐ったブログを開き武装解除をした理由、本題としてはかなりインパクトが薄い話になるのだが、先日、友人と盛り上がった話についてだ。

 

僕「マックはうまいけどさ、モスはおいしいよね。」

友「ちょっと何言ってるかわからない。」

僕「うまいとおいしいの区別があるんだよ。」

友「ほーん。まあ腹に入れば全部うまいよね。」

 

こういう話だ。

 

 

僕にとって「おいしい」と「うまい」にはれっきとした区別があるのだが、それが友人に上手く伝わらなかった、って話。どちらも「良い」ことを表す言葉ではあるのだが、なんていうかさ、言葉の手触りが違うような気がするじゃない。

 

僕が「おいしい」というときは、なんていうかこう、緻密さだとか、高品質ななにかを感じるときだと思う。非常に出来の良い筑前煮だとか、気の効いたフレンチのコースだとか、「おいしい」と思う。ハンバーガーショップの例で行けば、モスのほうがパンのかおりとか、野菜の味とか、どことなく、マックよりも素材のよさを感じるものだから、おいしい、と言いたくなる。

 

対して「うまい」なのだが、これは説明するのが難しい。

 

おいしいと比べると、うまいと言うときは緻密さを気にしない。出来の良さとかよりも、その絶対値の大きさにたいして、「うまい」という表現が出てくる。割と私はなんでもうまいと言っている。マックもコンビニの麻婆豆腐も、ストゼロもピザもおにぎりもなんでもうまい。飲み食いの幸福が一定値を超えたとき、「うまい」はため息として、あふれ出る幸福を逃し調節する役として現れる。

 

 

「自分はこう感じていることに、こう名前を付けているよ」というのは、なかなか伝わらんのよなあ。コミュニケーションの永遠の課題。言葉って、辞書を引いてそれが内包してるイメージを統一すること、できることもあるけれど。頭の中のどのイメージになんて名前を付けるか、って作業が絡んでくる。結局、相手の言うことをよく聞いて、その先の相手の人間をよく見るしかない。

 

そんなことを考えていると、友人は「でもプリンはさ、うまいやつとおいしいやつがあるよね…」と言ってきた。人類が分かり合える鍵は、こういうところに眠っている気がしたのだ。